昭和52年01月10日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 信心をさせて頂いて、一番大切と思われるもの、その大切なものを、疎かにしたり三宝様をやはり踏むように、大切なものを疎かにしては、おかげにならんと言うのではなくて、天で頭を打つ様な事になる。慢心が出るとおかげを取り外すと仰る。自分で慢心と思っていない、自分で踏みつけとると思っていない、そこに危い言わば落とし穴がある様に思います。とにかく信心を、これはお道の信心です。
 やはり信心にも色々ありますから、お道の信心では、何処までも教会に足が遠のく、教会に参っても大した事はない、家で拝んどっても同じだと、私はそう言う様な状態になってきた時には、もう大切なものを、踏み付けておる時だと悟るべきだと思うです。日々お参りが出来る事が有り難い、修行が出来る事が有り難い、御教えを拝聴する事が有り難い、まあそういう時には大体、私は間違いのない時だという風に思います。
 そういう事になりますと、次々お気付きを頂いておりましてもね、お気付きを、お気付きと、気付かん様になるです、それが怖い。お広前を遠ざかるのは、信心の抜け初めと仰せられますが、間違いなしに、そうです。もうどんなに、素晴らしい理由があっても、理屈が立っても、私は今日、世に三宝様踏むな、と大切なものを踏むなと、三宝様とは穀物の意とある。
 言うなら命の根である、その命の根を踏みつける様な事をすると目が潰れると、信心の言うならば一番大切なもの。昨日皆さんに申しました様に、お互い限り無いおかげが頂きたいというのに、限り無い信心を求める心が、起きてこないというのは、不思議な事だと。求める心が私は無くなったら、もう大事なものを、お粗末にしておる事であり、踏みつけておるような事になりかねないと思うです。
 言うならば、命の根が穀物であるならば、信心の根はあくまでも心です。その心が神様え向いていない、心がいよいよ御教えを、深く広く頂いて行うとする事に、なっていないとするなら。もうそれは一番大切なものを、お粗末にしておる事になります。まあ大切なものと言えば、神様のお働きそのものを、粗末にする事でしょう。けれども、その神様のお働きを、お働きと感じさせるのは、自分の心が生き生きとして、神様に向こうておる時なのです。
 昨日は一つの、何時もお届けにこの傾向がありますね。病人のお届けがあると病人。それも癌のお取次ぎ続くと癌の病気の様に続くんですよ。昨日はね、子供が大学とか高校に受験する受験の願やら、受験のお礼やらが非常に多かったです、続いとった。今佐賀から〈ひと連れ〉参って見えられる方達のは、皆子供さんが中学から高校に行くとか大学に行くとかいう人達です。
 それがね幾人ものお届けがあったんですけども、こちらにお願いに参りましたら、もう子供が進んで勉強する様になりました、もう目の色から変わりました。もう勉強にとにかく楽しゅう勉強が出ける様に見受けられます、と言った様なお届けが多かったですね。信心をね、本気で信心を頂こうという時には目の色が変わります。信心が楽しゅうなって来るです。そういう私は信心を頂きたい願いたいと思います。
 確かにお道の例えば教師教職を頂きます、やっぱりお道の教師としての自覚も出来ますし、プライドもある意味で持ちます。そして信者が先生あなたのおかげで助かりましたとか、あなたのお話を聞いてから本当おかげがで心がすきっとしましたとか、いろいろね、あなたのおかげでと言われる様になると、やっぱり良い気持ちがするもんです。けれどもそういう時がやっぱり一番大事な時の様ですね。
 いいえそんなことは、とこう言いよりますけども、ほうやっぱり自分も先生になったな、偉くなったなという様な、言うなら、慢心が心の中にそろそろ芽を出して来ます。これは身代が出来たり、先生と言われたり、という身代が出来て来ても、やっぱりそうです。まあ人から旦那様と、まあ言わば言われる様になりますと、本当に旦那様になってしまう。身に徳が付くほど屈んで通れ、人に例えば褒められたり、人からお礼が言われる様になると、もういよいよ本当に、神様の前に頭が下がる様な、心の状態が願われる、身に徳が付く程屈んで通れと。
 昨日でしたかね、私の事を生神様とか金光様とか、最近では親神様という様な、なら私に親神様という人はありませんけど、お届けにそういうのが大変目立って来る様になった。それは私がどういう親先生でも良かれば只先生でも良い、又それ以下のどんな事でも良いのですけれども、そういうような一つの敬称というかね、様な風に呼ばれれば呼ばれる程、本当にそうならなければならんという思いが私は強くなります。
 私は不思議に、そんな事を言われて、尻こそばゆいとかなんとか、いっちょん思いません。けれども本当にそうあらなければ、そうある精進を一生懸命致します。成程私が思いよる事を、神様が思いよんなさることだなと、私がなしよる事は、神様がなしござる事だな、という様な事に出会います。ですからそういう、言うなら体験をいよいよ積んで、いよいよそういう、体験を頂くためにはいよいよ、精進を怠りません。生神様と言われりゃ、生神様がたの私に、ならせて頂こうと精進する。
 私がその生神様になってしまう所に、危険があると思うです。これは不思議にやはり神様の働きというものでしょうか。私は最近御信者の中にも、つい思わず先生と言いたい人が何人もあります。でそん時にハッと思うてから、まあ抑える様な思いをするけども、ああこの人は、言わば先生と言われるだけの資格が、段々出来て来よるとだなと、いう風に思うんです。だからそういう資格が出来たからと言うて、ならその人が、先生になり切ってしまう事に依って、今度は反対に、信心が疎かになって行く人が有ります。
 人からこりゃ、先生と呼ばれる様になったら、本当に先生がたあらなければ成らんという精進をせずして、只、先生先生と言われると、必ず今日の御理解じゃないけれども天で頭を打つ様な、言うならば、神様へ近づかせて貰う、言うなら教えを頂こうとする姿勢が、非常に散漫になったり、崩れて来たり。それを軽く見たりする様になります。
 だれでも一つ、皆が総取次者と言われる位ですから、本当に皆から先生と言われなければ、言わずにはおれない程しに、自分の周囲の人が助かって行かれる様な、おかげを頂いて下さる様な、言うなら自分の一言で、人が助かって下さる様な、信心を頂かなきゃなりません。けれども、なられると途端にです、それが一つの自慢げになって参ります。そうすともうその人の信心は止まってしまいます。
 例えてこの頃から、直方地区に、善導寺の原さんがおいでられます。そりゃもうあちらの人達が大変喜ばれるです。もうあちらから、もうあちらの、御主人やらお婆ちゃん迄もこの頃は会うと、もう頭を下げてから、原さん又どうぞ来て下さいち、頼みなさいますけんでという風に言われます。もう原先生に成ろうとしよんなさる訳ですね。そういう時にそれなら原さんの心ん中に、グッと頂かなければならん事は、ああ私位の者の話であんなに喜んで下さる、そして言っておられる。
 そういう風に、他所にでもお話に行こうと思うと、神様がお話の材料は次から次と下さる、とこう言うのです。だから話をする事に、非常になら得意気に成って来るわけです。原さんに、決してそんな事は無かろうけれども、まあこれはそういう注意をしなければならんという事です。そういう所が大事ですから、そういうなら、今度は原先生になられてもです、なられればなられる程、人から喜ばれれば喜ばれる程、貴方のお話を頂いてと言われれば言われる程、言うならば謙虚になって行かれる、原さんでなからなければ、原さん自身が、おかげを落としなさる事になる。
 という風に、まあ思うちこれはまあ例えです。だからもう、いやいや私はそげん先生てんなんてんと、そげなこっち、こう言う事はいらんけれども、先生と言われるなら、先生と言われる程しの、おかげが頂きたいです。だからそういう時には、本当の先生にです、ならせて頂けれる、精進を本気でさせて頂く様な心、いよいよ今までよりも密に神様の心を向けていくという、生き方精進が伴うて、初めて言わば本当の先生という事になるのじゃないでしょうかね。
 私共は中々迂闊にしとりますと、旦那様と言われると、もう金持ちになった様な気持ちで、先生と言われりゃ、もう先生になった様な気持ちで、人に頭を下げる事を忘れる様になる。そういう時に、先生と言われれば言われる程、生神様と言われれば言われる程、本当に生神様を、目指さして頂こうという、精進の心が出るか出ないかという事であります。皆さんもどうでも一つ、先生と言われる程しに、本当にですね、貴方の話を聞いてから助かったとか、今まで分からなかった事が分かりましたとかと、言えれる様になるとね、やっぱり先生と言わなければおれなくなって来る。
 私共が信者時代が、やっぱりそうでした。もうとにかく、大坪さんちゃもう言われんごとなって、こりゃ大坪先生ち言わにゃおられない。それが段々言うならば、本当の先生にこうやって、段々ならせて頂いたという事はです、そう言われれば言われる程、なら私は謙虚になると言うか、神様にいよいよ打ち向かったというか、いえ私の事を先生ち言いなさいますな、という事は言わないけれども。
 先生と言われるならば言われるだけの信心を、身に付けて行こうという精進、ですから神様えは、愈々近づかなければおられない、神様を拝むなら拝むという事でも、今まで三十分間拝みよったら、一時間拝まなければおられなくなって来るの、私は先生だと思います。それで先生といわれりゃ、段々拝み方がザア-ッとなって来たとか、お参りやら人の話やらは、只我が言う事ばかりで、人の話を聞こうとしないとか、という様な私は自分の心の中に、そういうものが出来てきた時にはです、愈々これは慢心が出よる時と思うてです、用心に用心をしてのおかげを受けなければいけないと思います。
 ここは世に三宝様を踏むなという事は、大切なものを踏むなという事です。それはいろいろあります。けれども信心させて頂く者の、一番大切な所は自分の心であります。自分の心が生き生きと神様へ向かう、それこそ人が見たならばです、目の色まで変わって来る輝きを増して来る程しの私は信心、そういう心を愈々大事にして行かなければならんのに、先生と言われて良い気になる様な心の状態がもし出来たり、信心の方へ修行の方へおろそかになる様な時には、もう三宝さまを既に踏んでおる時だと思うて用心しなければならないという事を聞いて頂きました。
   どうぞ。